昨日、近所の某食品製造業者さんにお邪魔していた際、興味深い場面に出くわした。
あるお客さんからその家にクレーム電話がかかってきたのだ。理由は、ホームページからメールで注文を出しているのに全然反応が無いとのお叱りのようだった。
その家のホームページは、実はメールでは注文は受け付けていない。ホームページには、明確に、原則としてメールでの注文対応はしていない事が書かれている。にも拘(かかわ)らずである、その老人はホームページを開いている以上、一日一回はメールを見るのが当たり前、そんな弁解は話にならんというのである。
側で見ていたら、その店の奥さんは最初から低姿勢で、電話の向こうの人に申し訳ありませんと何度も腰を曲げて平謝り、初心に戻り今後はお客様第一に落ち度のないよう気をつけ、誠心誠意対応しますと述べていた。
客の側は、もう少し対応が悪かったら、2チェンネルなどに悪い噂を書き込み、あんたの処の評判を落すことだって出来るんだからねと脅しともとれるような事を言っていたらしい。電話が切れた後、若い人かと思い聞いたら、何と70代か80代くらいのお年寄りのというのだ。
その奥さんは一切反論することなく(メールでの注文は受け付けていない、というのはお客様側で認めていたらしく、お客様側から言い出した)、謝っていた。
私は、最近の日本人は老若男女にかかわらず、このような矢鱈と自分の正当性や正義ばかり主張する人が多くなったように思う。自らを振り返ることなく、主張を押し通すことができれば、それで正当性や正義が認められたと勘違いしている。
これも第二次大戦で日本が敗れ、戦前の文化や物の考え方が全面的に否定され、アメリカを始めとした欧米の影響の1つだろう。
しかしこれは“力は正義なり”の力を背景にした正義である。この事例の場合は、お客様と店側という、まだ残る日本的な上下の立場、いわば店側は低姿勢にクレームを聞くべきであるというある意味で前近代的な日本的な物の考え方・暗黙の了解を一方では利用しつつ、他方では力関係に物を言わせた理屈で不平を言い、鬱憤を晴らしているのである。
怒る自分から、一歩身を引いて、第三者的とまでいかなくても、頭を少し冷やして自分の態度を振り返ったならば、自分の方にも大いに非があるのはわかるはずだ。そう分かれば、何もそのように怒りを込めて電話を掛けずとも冷静に確認の電話を入れられたはずである。
しかし最近は、議論に負けたら、正義も破れるかのような欧米の考えが、日本の老若男女までまかり通って、そんなお人好しな事が出来るかと思う人間が増えてしまった。上の例などは、私から見るとある意味、現在の消費者の立場を利用した卑怯ともいえるクレームだ。が今ではそのように振り返ることが出来る人間など皆無に近いかもしれない。
情けない社会になってしまった、日本の社会は。
この背景には、もう一つ、自分らは被害者だ、弱者だという意識が矢鱈と強く、何に対してもクレームをつけて、鬱憤を晴らしたいという心理も働いているように思う。
先日、次のような場面を見た。
私が住む市内にある某スーパーでの話。特売日に母を連れてそこへ出かけ、私は駐車場に自動車を停めて待っていた。
その日は特売日ということもあり、駐車場は大混雑。そういったお客の中に自動車を停める場所がなく、入口近くの駐車スペースでないところに自動車を停めた者がいたらしく、ある角度から曲がる自動車にはその駐車した車が非常に邪魔になっていた。
見ると一人の70代くらいの老人が、こんな所に停めるなんて非常識だ、客であろうが注意すべきだと店員に抗議していた。店員は、まるでその犯人であるかのように申し訳ありませんと謝り、その後、店内放送でその車の持ち主に移動するよう言っていた。
おかしいのはその後だ、その老人は、他にも3回、それぞれ別の店員に同じように食ってかかっているのだ。
しかしその時点で見る限りその老人は、直接的被害は受けていない。連れ合いが買い物から戻ってくるまでの間の暇つぶしのようなもので、奥さんが戻ってきたら何もなかったかのように、一緒に自動車に乗って帰ってしまった。
何か自分が被害者であり、弱者であるかのような立場に立ち、文句を言って憂さを晴らしたかっただけなのである。
皆さんもこういう人が増えたと思いませんか。勿論、不正・不公平・間違っていることが多くまかり通るこの社会、誰かが声を大にして叫ばなければならない事はわかる。
そうとは言え自分の立場も弁えず、分・節度を忘れ、恥も知らず、他人をあるいは社会を批判して省みない人の何と多くなったことか。
こういう世の中は、幾つかの問題は相当改善される事もあろうが、場合によっては力による正義が逆に社会を歪め、一層捻(ひね)くれた社会を作らないとは限らない。いやきっとそういう社会に変えて行きそうである。
昔から日本でよく言われた“勝てば官軍”と、“力は正義なり”は似ているが少し違う。“勝てば官軍”は、ある事柄につき争いが起こると某は勝たない限り、官軍(正義。正当な立場)とはなれないのである。
それに対して“力は正義なり”は力あるものを最初から正義と認め、力に物を言わせて、正義だと押し通すことだ。この場合、圧倒的に力の差がある場合、ほぼ最初から正義がどちらか藩邸されたことになる。理由がどうあるにせよだ。
これがアメリカ合衆国が、敵対国(または利害が対立する国、アメリカの言うことを聞かない国)に対して、今述べたような理屈で、国益を押し通し、正義だ、正義だと言って、世界中から嫌われたことは多くの人々が理解するところであろう。
日本もそんな嫌らしい国になりたいのか、端から見ていてそんな恥ずかしい国になりたいのか。
日本が、もっと世界で相応しい地位にありつきたいと言っても、力に物を言わせて、そんな大国にはなってほしくないものだ。同様に日本人には、日本の美徳であった謙虚な、また分を弁(わきま)えた物の考え方を、思い出してほしい。そういった物の考え方こそ、冷静さを保って物事を考えるいい方法だったと思う。
数々の難題を抱える現代社会を、将来の日本人・我々の子孫の為にも、(国益的立場ばかりでなく真に正しい道は何かを探り)採りうる最善の道を進むべきである。日本人にはもっともっとその辺を深く考え直してもらいたいと思う。
最後に、よく考えたら自分も分を忘れ、言い過ぎたかもしれない。驕らず昂ぶらず謙虚に生きる事をこれからも心掛けたい。