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幽体剥離的自己客観視と神通力的自己客観視

2009/05/25 08:50

 

 数時間前、私は一つ前の記事で「怒る自分から、一歩身を引いて、第三者的とまでいかなくても、頭を少し冷やして自分の態度を振り返ったならば、自分の方にも大いに非があるのはわかるはずだ。」という文章を書いた。

 

 よく考えると「一歩身を引いて」まではいいのだが、「振り返る」というより、「背中を見る」という方が良かったかもしれない。しかし人は鏡でもないかぎり背中は見えない。


 だから自分の背中の方から幽体剥離するような心理的シュミレーションをして、自分の背中を見るとでも言おうか、そういった感じの客観的な見方を心掛けるということである。

 

 振り返るというと、何か再考する必要がある行為やその結果だけに目がいってしまう可能性があり、自分がその行為を行っていた時の態度や心理状態、物の考え方・捉え方などをも客観的に見て分析することが重要であるのにそれができない可能性がある。

 

 他人の目、外見を気にするというのとも少し違う。客観的という意味では、他人の目、外見も重要だが、それだけではなく、客観的でありながらもそこにその人の精神的態度や物の考え方・捉え方なども見通せるような神通力的客観とでもいおうか、そのような目が必要ではなかろうか。

 

 俺は神ではない、神通力などと何を傲慢な事をと言うかもしれないが、自分の心の中は冷静になれば客観的に見れるものだ。いわばここではそれを第三者的な言葉で神通力客観と例えて言ったまでだ。

 

  最終的に物事を判断するのは、色々熟考した後に自ら信じるところの正しい道に進むということになろう。それでいいのだ。そのような手順を踏む冷静さが、21世紀という幾多に及ぶ危機を乗り越える我々には必要な気がする。

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一方的に主張して自らを省みない日本人へ

2009/05/25 05:22

 

 昨日、近所の某食品製造業者さんにお邪魔していた際、興味深い場面に出くわした。
 あるお客さんからその家にクレーム電話がかかってきたのだ。理由は、ホームページからメールで注文を出しているのに全然反応が無いとのお叱りのようだった。

 

 その家のホームページは、実はメールでは注文は受け付けていない。ホームページには、明確に、原則としてメールでの注文対応はしていない事が書かれている。にも拘(かかわ)らずである、その老人はホームページを開いている以上、一日一回はメールを見るのが当たり前、そんな弁解は話にならんというのである。

 

 側で見ていたら、その店の奥さんは最初から低姿勢で、電話の向こうの人に申し訳ありませんと何度も腰を曲げて平謝り、初心に戻り今後はお客様第一に落ち度のないよう気をつけ、誠心誠意対応しますと述べていた。

 

 客の側は、もう少し対応が悪かったら、2チェンネルなどに悪い噂を書き込み、あんたの処の評判を落すことだって出来るんだからねと脅しともとれるような事を言っていたらしい。電話が切れた後、若い人かと思い聞いたら、何と70代か80代くらいのお年寄りのというのだ。
 

 その奥さんは一切反論することなく(メールでの注文は受け付けていない、というのはお客様側で認めていたらしく、お客様側から言い出した)、謝っていた。

 

 私は、最近の日本人は老若男女にかかわらず、このような矢鱈と自分の正当性や正義ばかり主張する人が多くなったように思う。自らを振り返ることなく、主張を押し通すことができれば、それで正当性や正義が認められたと勘違いしている。

 

 これも第二次大戦で日本が敗れ、戦前の文化や物の考え方が全面的に否定され、アメリカを始めとした欧米の影響の1つだろう。
 

 しかしこれは“力は正義なり”の力を背景にした正義である。この事例の場合は、お客様と店側という、まだ残る日本的な上下の立場、いわば店側は低姿勢にクレームを聞くべきであるというある意味で前近代的な日本的な物の考え方・暗黙の了解を一方では利用しつつ、他方では力関係に物を言わせた理屈で不平を言い、鬱憤を晴らしているのである。

 

 怒る自分から、一歩身を引いて、第三者的とまでいかなくても、頭を少し冷やして自分の態度を振り返ったならば、自分の方にも大いに非があるのはわかるはずだ。そう分かれば、何もそのように怒りを込めて電話を掛けずとも冷静に確認の電話を入れられたはずである。

 

 しかし最近は、議論に負けたら、正義も破れるかのような欧米の考えが、日本の老若男女までまかり通って、そんなお人好しな事が出来るかと思う人間が増えてしまった。上の例などは、私から見るとある意味、現在の消費者の立場を利用した卑怯ともいえるクレームだ。が今ではそのように振り返ることが出来る人間など皆無に近いかもしれない。

 

 情けない社会になってしまった、日本の社会は。
 この背景には、もう一つ、自分らは被害者だ、弱者だという意識が矢鱈と強く、何に対してもクレームをつけて、鬱憤を晴らしたいという心理も働いているように思う。

 

 先日、次のような場面を見た。
 私が住む市内にある某スーパーでの話。特売日に母を連れてそこへ出かけ、私は駐車場に自動車を停めて待っていた。
その日は特売日ということもあり、駐車場は大混雑。そういったお客の中に自動車を停める場所がなく、入口近くの駐車スペースでないところに自動車を停めた者がいたらしく、ある角度から曲がる自動車にはその駐車した車が非常に邪魔になっていた。

 

 見ると一人の70代くらいの老人が、こんな所に停めるなんて非常識だ、客であろうが注意すべきだと店員に抗議していた。店員は、まるでその犯人であるかのように申し訳ありませんと謝り、その後、店内放送でその車の持ち主に移動するよう言っていた。

 

 おかしいのはその後だ、その老人は、他にも3回、それぞれ別の店員に同じように食ってかかっているのだ。
 しかしその時点で見る限りその老人は、直接的被害は受けていない。連れ合いが買い物から戻ってくるまでの間の暇つぶしのようなもので、奥さんが戻ってきたら何もなかったかのように、一緒に自動車に乗って帰ってしまった。
 

 何か自分が被害者であり、弱者であるかのような立場に立ち、文句を言って憂さを晴らしたかっただけなのである。

 皆さんもこういう人が増えたと思いませんか。勿論、不正・不公平・間違っていることが多くまかり通るこの社会、誰かが声を大にして叫ばなければならない事はわかる。
 

 そうとは言え自分の立場も弁えず、分・節度を忘れ、恥も知らず、他人をあるいは社会を批判して省みない人の何と多くなったことか。

 こういう世の中は、幾つかの問題は相当改善される事もあろうが、場合によっては力による正義が逆に社会を歪め、一層捻(ひね)くれた社会を作らないとは限らない。いやきっとそういう社会に変えて行きそうである。

 

 昔から日本でよく言われた“勝てば官軍”と、“力は正義なり”は似ているが少し違う。“勝てば官軍”は、ある事柄につき争いが起こると某は勝たない限り、官軍(正義。正当な立場)とはなれないのである。
 それに対して“力は正義なり”は力あるものを最初から正義と認め、力に物を言わせて、正義だと押し通すことだ。この場合、圧倒的に力の差がある場合、ほぼ最初から正義がどちらか藩邸されたことになる。理由がどうあるにせよだ。

 

 これがアメリカ合衆国が、敵対国(または利害が対立する国、アメリカの言うことを聞かない国)に対して、今述べたような理屈で、国益を押し通し、正義だ、正義だと言って、世界中から嫌われたことは多くの人々が理解するところであろう。

 

 日本もそんな嫌らしい国になりたいのか、端から見ていてそんな恥ずかしい国になりたいのか。
 日本が、もっと世界で相応しい地位にありつきたいと言っても、力に物を言わせて、そんな大国にはなってほしくないものだ。同様に日本人には、日本の美徳であった謙虚な、また分を弁(わきま)えた物の考え方を、思い出してほしい。そういった物の考え方こそ、冷静さを保って物事を考えるいい方法だったと思う。

 

 数々の難題を抱える現代社会を、将来の日本人・我々の子孫の為にも、(国益的立場ばかりでなく真に正しい道は何かを探り)採りうる最善の道を進むべきである。日本人にはもっともっとその辺を深く考え直してもらいたいと思う。

 

 最後に、よく考えたら自分も分を忘れ、言い過ぎたかもしれない。驕らず昂ぶらず謙虚に生きる事をこれからも心掛けたい。

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人間も脳の退化が始まったのか

2009/03/29 08:32

 

 野生動物は、家畜化すると脳が退化し、体重に対する脳の割合が減少するという。理由は餌を自分でとらなくていいからということらしい。
 

 幾つか例をあげよう。イノシシが豚になるにあたって体重に対する脳の割合は2/3に減った。山猫から猫になるにあたっては3/4に減少、オオカミから犬になるにあたっては7/10に減少。
 

 人間はどうだろうか。一見すると、猿人、原人、新人、今の人間と進化し、脳の容積は確実に増えてきた(ネアンデルタール人の方がクロマニョン人より脳が大きかったというが、ここまで来ると脳の表面積なども関係してくる)。
 

 進化の過程で現代に近いほど、食料を自分で直接獲得しなくてもよい方向に変化してきたようにおもわれる。そうなると他の動物では、脳が退化した訳だが、人間は直接食料を確保する行動に加わらなくとも、それなりに努力を強いられてきた。また会話し文字や道具を使うことによって脳を逆に増大させてきた。
 

 20世紀は科学の世紀と言われ、急速に科学・技術を発展させてきた。しかし思想家のレベルを比べた場合、20世紀に入る前後あたりをピークとして、逆に降下気味になるのではなかろうか。
最近の日本を見てみよう。若い世代は、学力低下が叫ばれ、実際、学力もグンと落ちている。

 

 最近では東大、京大、早大、慶大などといっても全然大したことはない(東大の教授などは親新入生に対してテストなどでこの実態を把握しながら必死に隠しているようだが)、今の生徒のレベルは数十年前の偏差値なら10ぐらい下の生徒がやっと合格している程度らしい。
 

 近頃お茶の間を騒がせている大学生が起こした覚醒剤、偽札etcのニュースを見てもわかるように、一流大学の学生といえども、デマなどを簡単に信じ馬鹿というか幼稚な若者がメチャクチャ増えている。
 

 この原因は、やはり昔と比べると食うに困らない社会になったせいではないか。
 世の中は現在、100年に一度の大不況といわれる状況にあるが、今の若者・子供は、稼ぎもないのに、小学生、中学生が平気で何万円もの電話料金を使ったり、年間何万円、場合によっては何十万円ものお金をゲームに使っていたりしている。
 

 携帯電話がなくなったらどうする?という質問に、ほとんどの若者・子供が、生きていけない、などとアホかな発言をする世の中だ。
 私の子供の頃と比べると信じられない。我家は、爺さんが厳しかったので小遣いさえもらっていなかった。3時におやつの時間があり、それで十分だと言われた。


 今の幼稚園、小学校などの運動会など見ていると、両親、祖父母らが駆けつけて、観客が子供らの数倍の人数集まるのが常識となったり、高校のクラブの大会や受験まで親が同行するという、20年ほど前では信じられないような、まさに過保護状態である。
 

 不況なだけに、若者らは社会へ出ると、そのギャップに驚いてしまう。それで目覚めて心を入れ替えるかというと、そうでもなく、とても重労働などしてまで稼ぐつもりなどない若者がほとんどだ。
 

 全て社会が悪いと他人のせいにして、犯罪に走ったりする。多少同情する余地もあるが、これまた甘ったれた根性で幼稚な考えといえる。
 

 色々考えると、これらの現象は、21世紀に入って脳の退化が始まった証ではなかろうか。今後は、よりよき生活を目指す後進国から、非常に優秀な人材がある程度現れ、日本のような満たされた先進国の人々の脳は退化しいくのかもしれない。
 

 人間は、会話、文字、道具など使いこなし過去に類例を見ないような発展を遂げた動物であったが、動物全般に当てはまる摂理には、やはり抗し得ないということなのかもしれない。

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瑜伽唯識論(法相宗)と脳科学

2009/03/14 12:22

 

 先日、奈良時代の僧・行基のことを書いた『天平の僧 行基』(千田稔著・中公新書)という本を読んだ。彼は、日本に法相宗を最初に伝道した僧として有名な道昭に学んだ人物であった。法相宗はインドでは瑜伽行派とか唯識学派と呼ばれ、瑜伽唯識論を唱えるインド四大仏教学派の一派であった。法相宗は中国や日本での呼名である。


 道昭は、中国でインドから帰って訳業をしていた玄奘に直接学び、この理論を学んだようであった。この法相宗の正系は中国においては
 玄奘→基(窺基)→慧沼(法相宗・第二祖)→智周(法相宗・第三祖)
であり、正系と異なる一派の間で論争なども色々あったが、この三祖以後は振るわず、その伝承はかえって日本に伝えられ、法相宗は南都六宗の一つとして栄える結果となった。


 日本における法相宗だが、道昭の(第一伝)後、智通智達が入唐し玄奘と基に学んだのが第二伝(南寺伝)、第三伝と第四伝は智周に学んだ智鳳らと玄昉で、これを興福寺伝(北寺伝)というそうだ。


 ちょっと余談が長くなってしまった。知ってほしかったのは瑜伽唯識論の中身だ。
 唯識についての、わかりやすい説明が、前掲の本の中に興福寺の住持・多川俊映の言葉として書かれてあったので、ちょっと引用する。

 

 「わたしたちの認識というものは、つまりものごとの<私にとっても>意味を知り分けようすることの実際は、いついかなる場合も外界のまるうつしというものではなく、その心のありようを写して外界が認められるというものであるということになります。

 つまりわたしたちの心こそが、ものごとをつくり上げ、かつ、その内容を決定しているのだといわなければなりません。これが唯識あるいは唯識所変ということであります。そしてそのことを裏返すならば、私たちというのは、わが心の働きに知られた限りの世界に住んでいるものということであります。」(『唯識十章』)

 

 つまり瑜伽唯識論の唯識とは、あらゆる存在は唯(ただ)識(すなわち心)の働きで表された仮の存在に過ぎないとする唯心論であり、瑜伽(ヨーガ)(禅定)という実践を通して識のあり方を汚れた状態から正常な状態へと変革させることを行とした。


 この瑜伽行派は、その主張を読んでおわかりの通り、主観的観念論哲学である。
 「もともとは、坐禅瞑想の間に外界の存在や心象が消えうせ、根源的な心識のみが唯一の実在として残る観行(かんぎょう)に基づいて生じた思想であったが、『解深密経(げじんみつきよう)』や『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』などの基本的著作、弥勒(マイトレーヤナータ。歴史的人物か否か不明)、無著(アサンガ、4~5世紀)、世親(バスバンドゥ、400―480ころ)、陳那(ディグナーガ、480―540ころ)、護法(ダルマパーラ、530―561)、安慧(あんね)(スティラマティ、510―570ころ)その他多数の巨匠の論書を経て、徹底した主観的観念論の哲学体系を完成するに至った。外界の対象の存在を否定し、世界万象は人の認識の表象にすぎないと説く。」(Yahoo!百科事典より)

 

 ここ数年、私は脳科学の本もよく読む。瑜伽唯識論が主観的観念論哲学とはいえ、その主張するところが、現在脳科学で説かれる主張と非常に似ていることに驚いている。
私は、同年代の者に比べると、かなり仏教というもにに抵抗が無く色々読んでいる方だと思うが、この瑜伽唯識論と脳科学の類似性により、また興味が増してきたのを感じている。

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集中とは思考停止か?私はNo!と言いたい

2009/02/08 00:15

 

(当記事は、2007/6/19に「ブログ源さん家(原産地)」に書いた記事だが、各ブログのカテゴリを明確にするためこちらに移してきたものだ。)

  先日、行徳哲男氏の『感奮語録』(到知出版社)を読んで、得るところが多かった。しかしながらどうしても納得いかない部分もあった。それは第5章の「紛れもない私を生きる」の中の「集中の世界」の文章だった。

(参考: 私が書いた『感奮語録』の紹介文 http://unegen.exblog.jp/5633430 ←「畝源Theブログ」から)

 

 行徳氏は「感性とは集中・統合・統一機能である。それゆえ集中できなくなると感性は鈍る」と説く。ここまではわかる。
次に「集中するとは思考停止することである。千日行にしろ、滝壷修行にしろ、火中歩行にしろ、少しでも考えてしまうと命にかかわる。思考停止の行である。」
 

 私は、集中は集中であって思考停止でないと思う。ある一事のみしか考えず、他は感覚を麻痺させ働かせないことであると思う。

 「どうすれば考えることをやめられるのか。その一つに半眼の世界をつくることがある。目を開けると考える材料が目から飛び込んでくる。目をつぶるとまた考えてしまう。ゆえにその真ん中をとる。それが半眼の世界である。」
 

 これまた間違いだと思う。現に私の知っている禅宗の僧侶は、目をつぶらないのは(目をつぶると考えてしまうからではなく)、目をつぶると眠ってしまって、いわば思考、つまり主体的精神の働きを停止してしまうから(それでは駄目なので)半眼にするのである、と云っている。

 

 座禅とは、只管打座というように、只管(ひたすら)精神を集中して座禅を打ち自分の心を見つめることである。思考停止するのではなく、己が心を見つめること以外はいかなる考え・感覚も向けないようにする訳である。
 

 思考ではないかもしれないが、何も考えないというの言い方では、不適切である、じっと心をみつめるのである。

 

 行徳哲男氏は、偉大な思想や発明も、それらをなした偉人が、思考を停止したときそれらのヒントを得たようなことを述べていた。しかしかなり自分の説に都合よく単純化して言っているだけで、嘘とはいわないまでも、かなり事実を曲げていると思う。

 

 私が知っている限りでは、行徳氏があげた偉大な思想や発明の幾つかの例も、思考を停止したから思いついたり悟ったのではなく、考えに考え抜いて、思考が堂々巡りするぐらい何度も考え直し、それが他のことには全く注意が向かないほどの極度の集中を生み、ある契機でブレークスルーしてある偉大な発見をしたり、思想を生み出したり、悟りに到っているのである。

 

 行徳氏は、陽明学者として、知行合一の実践的思想の教えから、あまり考えすぎて、何かの判断をしないといけない時に、優柔不断となり判断できなくなることの心配からこのような事を述べているようだ。

 

 しかし何かの判断・決断をしないといけない時、思考が堂々巡りしている場合どこかの時点で、集中して考えた後スパッときめることの重要性と、何か重要な思考を要する仕事で、集中してというか没頭して考えて考えて考え抜くことは、次元も違うし、意味合いも全く違うと思う。

 

 思うに哲学者ともいえる思慮深いはずの行徳氏が、こんな単純な括り方の発想をするのは、理系型人間でなく文系型人間だからだろう。

 

 理系的仕事は、どんなに何度も考え抜いても同じ答えしか見つからないような場合でも、色々少しずつ条件を変えてやり直してみたり、ステップを最初に戻って確認しなおしたり、そういう作業が非常に重要になる。

 集中しながら堂々巡りと思われるくらい考えて考えて考え抜くこともしばしば非常に大切なことなのだ。

 

 こういう批判めいたことを書くと、お前ごときが行徳氏に反論するとは生意気だ、などといわれそうだが、私は有名な人だからと言って無批判的に考えを受け入れるつもりは無い!
 

 これからもこういう本は、批判的試みを加えて、自分なりによーく考えながら読書したいと思う。

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湯湯婆(ゆたんぽ)で環境保護

2009/02/07 23:25

 

 今夜は軽い話題。

 下の写真に写っている品は、今気に入っている湯タンポだ。値段は、母親が買ってきた品なのでよくわからないが、ポリエチレン製品だし、大した金額とは思えない。

 しかしその効果は、思いのほか凄い。

 寝る前に、この湯タンポの中に、ボイラーの40℃ほどのお湯を入れ蓋をしてから、専用の袋の中に入れ、布団にいれれば、もう暖か。その気持ち良さに知らず知らず心地よい眠りにつくことでしょう。

  翌日にお湯を入れ替える頃でも、排出する水に触れると、まだ生温く感じるほどなのだ。 

 もう冬の寒い日も、残りあと僅かかもしれませんが、逆にそうであるだけにもしかしたら、値段も安くなっているかもしれません。 

 使ってみれば、きっとこんな単純な湯タンポで暖か快適な睡眠がてるのだなあと驚くはずです。

 お薦めの一品です。

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「日本必敗 昭和16年総力研究所の予測」を読んでショックを受ける

2009/02/07 00:22

 

 この上の「」書きで書かれた文章は、『国民の知らない昭和史』(KKベストセラーズ)に収められた猪瀬直樹氏のものだ。上記の本以外にも、「別冊歴史読本」(1986年刊・冬季特別号)や「日本の近代 猪瀬直樹著作集8」に収められているとのこと。

 

 総力研究所とは何か?
 この本によると昭和16年4月1日に設置した機関で、日中戦争などで日米関係が困難な局面に陥り、アメリカとの戦争に至った場合の戦局の推移、国内の動向などを、各省庁や民間などから選抜したエリート達に模擬内閣など組織させ、机上演習し研究し、総力戦の参考にしようとしたらしい。

 

 「秘 総力戦研究所設置に関する件」(昭和15年8月16日付)によると、「近代戦は武力戦の外、思想、政略、経済等の各分野に亘(わた)る全面的国家総力戦」で、「第二次欧州大戦」も「支那事変の現段階もまたかかる様相を呈しつつあり」と記されている。そのため国家総力戦に関する基本的調査研究」を行う機関は、「至急之を開設」すべしと結ばれいた。

 

 その総力戦研究所が組織した模擬内閣(首相や各大臣も置く)が、(真珠湾攻撃の三ヶ月ほど前の)昭和16年8月27日と28日の両日、本当の内閣・近衛内閣と対峙して会議を開き、模擬内閣が討論の結果到達した結果を報告していた。
 

 その内容は「12月の中旬、奇襲作戦の敢行により緒戦の勝利を見込まれるが、しかし物資において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる」というものだった。今読むとまるで予言の所である。終局のソ連参戦まで予想しているのには驚いた。

 

 東条英機などは、彼らの研究の動向に注目していただけにショックだったようだが、この東条英機や大本営参謀の辻正信ら戦争推進派はこれらの意見を潰していったようだ。

 

 読んでいくと、政府や軍部側から出される具体性・現実身を帯びた「想定」を受けて、この総力研究所は他にも色々研究し、そのシュミレーション結果を報告しているが、それがまた皆鋭い。
彼らは非常に正鵠を得た分析を行い、今日知れている結果と比較しても各種数値は大差ないものを弾き出していて非情に驚かされるのだ。例えば戦争に突入した後の商戦隊や戦艦が沈められて減る船舶消耗量や、時間の経過とともに変化する双方の国力の差などの予想から戦争の行方なども、かなり正確に予想していたことがわかる。

 

 この研究所は、昭和17年に解散させられる。こんな凄い予測をしていた機関があったのに、日本は精神力で日英を上回るだとか、日露戦争のようにやってみないとわからないと言って戦争に突入した軍部に、私は日本人の愚かさの一面を垣間見た。

 

 人間は過去を反省しなければ、言い換えれば歴史から学ばなければ、何度でも同じ過ちを犯す動物である。特にこの事例など日本人的性向が顕れているように思う。
 

 この総力戦研究所の逸話を自分なりに考えてみればみるほど、(私は勿論戦後生まれの人間だが)あの戦争は一体何だったんだ、何と愚かしい事をしたのだろうと思いに囚われる。

 

 しかしよくよく考えてみると、当時戦争にいった人の中の多くの者が、こんな研究所の予測でなくとも、戦争当初から負けると思った兵士が多かったのではなかろうか。
 

 実は私の母方の伯父は、初期の予科練出身者で、真珠湾攻撃にも353機のうちの一機のパイロットとして参加し、潜水艦を一隻撃沈している。その後アリューシャン列島や、南洋の島々に配属され、最後は九州に戻ってきて消耗していたパイロットの養成にあたり、昭和20年4月1日、米軍の沖縄上陸を阻止するために片道燃料で出撃し戦死している。

 

 母親から聞いた話だが、その伯父が真珠湾攻撃から大して月日の経っていない頃、休みで帰省し、祖母に(つまり伯父の母に)コッソリと「日本は、どう足掻いてもいずれ負けるよ」と言ったそうだ。真珠湾攻撃も、攻撃に参加したものには楽勝というような印象ではなく地獄のような戦いだったらしい。
 
 日本人は冷静になれば、優秀な分析能力を発揮する国民なのだ。そのような分析による卓見を得たならば、捻じ曲がった風潮などで圧伏することなく、その意見を尊重し活かすよう心がけるべきだ。

 

 その上で国民一人一人が本来の日本人の勤勉さで努力し克服してゆけるようになれば、今日のこの未曾有の経済危機も乗り切るだけでなく、きっと世界に貢献できる日本へと発展できるのではなかろうか。

 

 経済状況の悪さから、人々の気持ちが荒れたのも分からないではない。でもマネーゲームのような投機や犯罪、企業倫理の欠片も無い酷薄な会社が増えた背景には、バブルの経験を経て、日本人の特徴だった勤勉さが時代とともに、多くの人から剥落し、努力する心が昔と比べると少なくなったことが一番の原因のように思う。

 反論する人は、それも国際化の必然性の所以というかもしれないが、私はそれさえも日本人の言い訳のように思えるのだが、皆さんはどう思うか?

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環境に優しい室内設定温度20℃に対する疑問

2009/02/04 19:50

 

 環境保護(ECO)のため、暖房機器の室内温度の設定を20℃にしています等といった話をよくテレビやインターネット、雑誌で見かける。


 果たして本当にこれで環境保護に貢献していると言えるのだろうか。

 

 貧乏臭い話だが、北陸という雪国にある私の部屋は寒の一番厳しい時でも10度前後である(現在の寒暖計をみても12℃ジャスト)。部屋の中で皮ジャンなど暖かい服を着て過ごしている。

 あとは机の上でパソコンなど打っている時は、足温器に足先を入れる程度。テレビなど観ている時は、小さなコタツに入っているだけである。

 

 先日テレビなどで環境保護(ECO)に取り組む話を見ていたら、やはり暖房の設定温度を下げる話が紹介されていたが、設定温度を20℃にしていた。そして場合によってはさらにコタツなど置いている場合もあった。

 

 同様な取り組みの話で不思議に思うのは、これが夏になると、今度は冷房の設定温度を20℃にして環境保護(ECO)に貢献しましょう、という話に変わることだ。


 夏も冬も20℃かい、と言いたい。そんなのただのひ弱な人間の弁ではないか。
 

 我家ではこれまた貧相な話だが、家に冷房器具などなく、夏は暑い時では室温は28℃くらいから30℃ある。暑さ対策は、窓を開け放し、庭に水をまき、あとは扇風機を時々回すくらいで我慢する。

 

 こんな私から見ると、一年中20℃で暮らすのが、どうしてECO的生活か疑問で仕方が無い。
 そりゃまあ全然努力しないよりましだが。(だから私から言わせると冬に20℃以上の室温にして過ごし、夏に20℃以下の室温にして暮らすのは完全にアホなのである)

 

 私の二番目の兄の家族は現在カナダに住んでいる。その前はアメリカにいたが、向こうでは冬は暖炉などで室温を暖めるが、私と同様室内でも暖かい服を着て冬を過ごすのが当たり前だと言う。

 

 敢えて環境に優しい冷暖房の設定温度を定めるなら、冬の暖房器具の設定は15℃程度、夏の冷房設定温度は25℃くらいが、適度といえよう。
 

 日本人の、特に都会人の環境保護(ECO)に対する取り組みを聞いていると、パフォーマンス的で本音は環境保護(ECO)どうでもよく、真剣さが足りないように思うのは私だけだろうか?

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♪青い地球は誰のもの~(このフレーズを何度もリフレイン) 

2009/02/03 20:28

 

 環境問題はいつも自分なりに考えている。子供の頃から今で言うナチュラリストだったと思う。本当に地球をできれば救いたい、と思っている。・・・・

 

 ところで私は、環境問題を考えると、よく小学校低学年の頃、NHKでやっていたアンケートを交えた環境番組(確か鈴木アナが司会)を思い出す。その番組で使われていたテーマ曲が、反射的にすぐ思い出され流れるのである。

 あのメロディとフレーズは、純真だった私の子供心に強烈な印象を植え付けた。

 

 地球はいったい誰のものだろうか。俺のものの訳がない。誰か偉い奴のためのものか。いや違う。現代人のものか。いや未来に生きる人間のためにも必用だ。じゃ人間のためだけか。いや全ての地球上の生命のため、未来に生きる全ての生命のため。・・・・・・そこではたと気づいた。

 果たして地球環境は地球の生物のためだけに維持が必要か。もしかしたら宇宙のためにも地球の環境の維持は必要ではなかろうか・・・・・・・

 

 こういう事を30年以上も前の小学生低学年だった僕が考えたと言ったら信じてもらえるだろうか。でもそれに近いような作文も残っている。そしていまだに私はこの問いを問い続けている。

(この記事は、以前Yahoo!Daysに書いた記事を少し編集しなおしたものです)

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天下りした人は、その能力を活かして活躍しているか?No!と言いたい

2009/02/03 08:07

 

(当記事は、2007/4/3に「ブログ源さん家(原産地)」に書いた記事だが、各ブログのカテゴリを明確にするためこちらに移してきたものだ。)

 

 官僚や役人で、天下りする人は、果たして、天下り先でそんなに役立つ仕事をしているのだろうか。
 私はNoだと思う。

 

 私が以前勤めていた一部上場の某電機メーカーにも、天下りしてきた人たちが、何人もいた。私が本社時代一時在籍した某制御システム関係の営業部では、農林水産省から天下った人がいたし、他の部署でも当時の建設省や運輸省など、支店などでは県の土木部の元技官などがいた。
 

 それらの人は、メーカーで何をしているかというと普段は会社に出てきても、ほとんど何もしないのだ。

 

 私の部署にいたナガイさんという農林水産省から天下った人を例にあげよう。ナガイさんの普段は、応接ルームなどでお茶を飲んで雑談したり、テレビや雑誌を見て時間をつぶす。または「用があったら電話をよこせ」と言伝てて堂々と、近くの喫茶店へ出向く。

 

 ではナガイさんが動く時はどのような場合か。
 それは営業マンなどが、月に数度程度「農林関係のあそこの部署に挨拶したいのだが、面識がないので、ナガイさん、同行して下さい」と頼むわけである。そうするとナガイさんは、「そうかそうか」、といって、営業マンをカバン持ちのように引き連れて意気揚々と出向く訳である。

 

  そして客先でも、営業の代わりに交渉する訳でもない。メーカーの人間の紹介が終わったら、後は、営業マンに任せ、ナガイさんは、昔の知合いとただ旧交を温めるだけなのだ。相手と囲碁を打つことになったりする事もよくあったという。営業活動は、あくまでもおまえら営業マンの仕事だということなのだ。

 

 勿論、ナガイさんが自主的に農林省などに出向くこともある。それも遊びにいく訳だ。

 しかし会社の上司は、そのような遊交が円滑な営業活動に繋がる、つまり仕事であると考え、一つも文句を言わない訳である。
 

 つまり元官僚としての能力を活かして、打合わせをするとか、メーカーへ技術アドバイスをするなどの貴重なアドバイスをする訳でもない。誠にいい御身分である。

 

 会社によって天下りのあり方は違いはあろうが、大なり小なり天下りの人物は、私が以前勤めていたメーカーの天下りと同様なものではなかろうか。
 

 こういう天下りのあり方が、果たして世の中の役に立っているといえるのだろうか。
 官僚に就いた人の生涯の生活保障の役には立ってもいても、世間的にはそんなに役に立っているとは思えない。

 

 天下りした人は、高いキャリアがあり能力もあるような事を述べて、その有効性を弁護する人もいるが、そういう弁護論は全然見当はずれな話なのだ。上であげた例でもわかるように、実態は元役人に甘い汁を吸わせ、のさばらせ続ける制度だけの制度であり、私は、こんな制度は早くなくした方がいいと思う。このような慣例がある限り、腐った根性の役人を増やし続けるだけだ。

 

 今回の天下り規制関係の法案で、与党のかなりの議員や官僚がかなり抵抗しているが、与党をどちらかというと支持することが多い私でも、こういった動きには賛成できかねる。

カテゴリ: コラむ    フォルダ: 朝酒放言

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